チャム族に関する質問

チャム族 ベトナムに行こうという話が持ち上がっているのですが・・・

卒業間近なので、海外旅行に行こうということになり、友達同士ベトナムに行こうという話が持ち上がっています。そんなところに例のテロ事件。ベトナムに行くのって危険ですか?私は宗教問題も民族問題も詳しくないし、海外旅行も初めてな

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チャム族旅行記

カンボジア王国旅行記(3):1月29日アンコールワット、アンコールトム(by 旅人のくまさんさん)

チャム族
<2007年1月29日(月)>

 この日の予定です。5時20分にホテル出発で、アンコールワットの日の出見学となっていました。4時半に目覚ましをかけました。昨晩、予定よりは1時間ほど遅れましたが、余り遅くない時間にホテルにチェックインできましたから、十分に睡眠をとることができました。

<アンコールワットの日の出見学>
 迎えの車は予定通り5時20分にはホテルを出発し、もう2箇所ほど別のホテルを回って、アンコールトムへ向かいました。当然ですが、辺りはまだ真っ暗闇でした。
 現地ガイドのペン・ホーさんの予測ですと、6時45分頃の日の出とのことでした。アンコール遺跡に入場するには、1日券か、顔写真を貼った3日券などが必要でした。その券の発行は、アンコールワットへの入口の建物だけで扱っていました。顔写真は、旅行社からお聞きして、日本を発つ時に用意していました。私の場合、ビザ申請の時の残りの写真で間に合いました。
 朝日は、アンコールワットに向かって右手の林の上から顔を覗かせました。その前に空が茜に染まり始め、アンコールワットと高い椰子のシルエットが、何とも言えない異国情緒を醸していました。

<ホテルで朝食の後、アンコールトム見学へ>
 最初にアンコールトム遺跡について、フリー百科事典の「ウィキペディア」を参照しながら説明します。
 アンコールトム(Angkor Thom)は、アンコール遺跡の一つで、アンコールワット寺院の北に位置する城砦都市遺跡です。12世紀後半、ジャヤ・ヴァルマン七世により創建されたとされます。アンコールは、「大きい都市」を意味します。「アンコール」は、サンスクリット語のナガラ(都市)を起源とし、「トム」は、クメール語で「大きい」を意味します。
 アンコールトムは、一辺3kmの堀と、ラテライトで作られた8mの高さの城壁で囲まれています。外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門と勝利の門の五つの城門でつながっています。東西南北の四面には、観音菩薩の4面像が彫刻されています。
 ホテルがあるシェムリアップからは、アンコールトムはアンコールワットより更に北側に位置します。途中まで、アンコールワットの日の出を見学した道を走ったようです。

<アンコールトム遺跡・南大門>
 南大門といえば、韓国の国宝第1号の城門を思い浮かべますが、こちらも立派な南大門です。アンコールトムに五つある門の内の一つです。その城門は塔になっていて、頂部には4面菩薩像が飾られています。
 門から堀を結ぶ橋の欄干は乳海攪拌を模したナーガ(大蛇)になっています。ナーガは、インド神話に起源を持つ、蛇の精霊あるいは蛇神のことです。頭頂に5匹の蛇を飾る人間で、下半身は蛇(コブラ)の姿をしています。天気を制御する力を持ち、怒ると 干ばつに、なだめられると雨を降らすとされます。
 このナーガを引っ張る阿修羅と神々の像が、欄干に並んでいます。蛇の胴体部分が壊れて、それぞれが独立した像のように見えます。門に向かって右手が阿修羅、左手が神々です。アンコールトムを城砦としている、一辺が3キロの環濠は、広さが113mとされます。今は干上がっていて、水はありませんでした。

<アンコールトム遺跡・バイヨン>
 バイヨン(Bayon)は、カンボジアのアンコール遺跡群のヒンドゥー・仏教混淆の寺院跡です。アンコールトムの中央に位置します。クメール語の発音では、「バヨン」の方が近いとされます。バは「美しい」、ヨンは「塔」の意味を持ちます。
 アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤ・ヴァルマン七世がチャンパ王国に対する戦勝を記念して、12世紀末ごろから造成に着手したと考えられています。しかし、石の積み方や材質が違うことなどから、多くの王によって徐々に建設されていったものであると推測されています。
 当初は大乗仏教の寺院でしたが、後にアンコール王朝にヒンドゥー教が入り、寺院全体がヒンドゥー化しました。これは、建造物部分に仏像を取り除こうとした形跡があることや、ヒンドゥーの神像があることなどから推測されています。
 クメール様式とされる建築には、アーチ部分の石を水平に少しずらしながら空間を得る、擬似アーチと呼ばれる構造が多用されています。迫り出しアーチとも呼ばれます。アーチとの比較図を引用しておきます。(比較図:記載省略)
 建築全体ではおおむね三層に分かれていて、高さ約43mの中央祠堂を中心に、その第1層に二重の回廊が配置された構造となっています。50近い塔と、百個以上の人面像があります。
 第2回廊には、チャンパ王国との戦争の様子や、バイヨン建設当時の市場や、狩の様子等がレリーフに刻まれ、当時の庶民の暮らしを窺い知ることのできる貴重な資料とされています。
 ところで、チャンパ王国は、192年から1832年まで東ベトナム中部沿海地方に存在した、オーストロネシア語族を中心とする王国でした。カンボジアの東と接した国です。その主要住民の「古チャム人」は、今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされています。中国では唐代まで「林邑」と呼び、一時「環王国」と自称しましたが、宋代以降は「占城」と呼ばれていました。
 第2回廊に刻まれたレリーフは見飽きることがありませんし、巨大な4面菩薩像には圧倒されます。こちらも微妙に表情が異なっていて、興味が尽きません。

<パプーオン>
 ガイドブック等に載っている紹介記事を引用させて頂きます。11世紀に建てられたヒンドゥー教寺院の「パプーオン」は、「隠し子」の意味を持ちます。
 その伝説は、現在のタイ王国のシャム王と、現在のカンボジアのクメール王は兄弟だったことに由来します。シャム王がその往時をクメール王に預けると、臣下は陰謀だとして往時を殺害しました。
 これに怒ったシャム王がクメールを攻めたところ、クメール王妃が、その往時をこの寺院に匿った事が「隠し子」の由来です。アンコールトム以前に建設されたこの寺院は、高さではアンコールトムよりも高かったことが、13世紀の元朝フビライの紀行文に記されています。現在、その中央祠堂が大掛かりな修復工事に入っていました。フランスによる修復工事は、内戦前から始まったようですが、中断を経て、現在も継続中です。
 パプーオンで見逃せないのが空中回廊です。200mに亘り、2mの四列円柱に支えられた回廊は、その後の寺院建築に伝承されました。

<ライ王のテラスと象のテラス>
 象のテラスとライ王のテラスは、隣接した場所にあります。それで、まとめて説明します。最初はライ王のテラスです。三島由紀夫の戯曲の題材にも使われました。その伝説の要約です。
 「その昔、ある王様が密林の中で毒蛇と戦い、仕留める時に返り血を浴びました。これが元で、ライ病(ハンセン氏病)に罹りました」と、言うのがクメールの神話「ライ王伝説」です。
 現在、ライ王のテラスには、その王様の石造が座していますが、これはレプリカです。本物はプノンペンの国立博物館に収蔵されています。
 ところでライ王は、アンコールトムを創建したジャヤ・ヴァルマン七世であるとの説があります。七世王は、道路建設や病院建設などにも熱心だったとされます。しかし、その晩年は、仏教寺院の建設などで財政破綻を招き、王国衰退の原因を作った、ともされています。
 次は「象のテラス」の説明です。「象のテラス」は、王宮前広場に面して、南北方向に300m続く、高さ3mの長大なテラスの呼び名です。12世紀後半、ジャヤ・ヴァルマン七世によって作られ、閲兵等に使われました。
 東方面には勝利の門があり、戦に勝った時、この勝利の門を潜ってアンコールトムに凱旋した兵士達が、この象のテラスで、王の閲兵を受けたとされます。
 テラスの上にはナーガの欄干があり、側壁にはその名の通り象のレリーフが施され、格好の撮影ポイントとなっています。レリーフの主題は、主に象による狩の様子です。テラスの北側の側壁にはガルーダのレリーフがあるようですが、残念ながら見落としました。

<タ・プロム遺跡>
 アンコール遺跡群の中でも、巨大なガジュマルに絡みつかれたタ・プロムの写真には、少なからず驚かされていました。
 そのタ・プロム(Ta Prohm)も、アンコール遺跡群と呼ばれる多くの寺院や宮殿などの遺跡群の内の一つです。12世紀末に仏教寺院として建立され、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと考えられている遺跡です。創建したのは、クメール人の王朝、アンコール朝の王ジャヤ・ヴァルマン七世です。仏教を信仰した王です。
 ところで、この遺跡の修復方針をめぐって、ユネスコを中心とした活発な議論が継続されています。熱帯の巨大な樹木は、遺跡を破壊しているのか、それともいまや遺跡を支えているのかという議論です。
 一般に遺跡の修復は、崩れている石材を積み直し、失われた部材を補充して、かつての姿を取り戻すために、作業計画を立案します。しかし、タ・プロムから巨木を切り払い、崩れている石材を元に戻した場合、この遺跡の魅力が失われる可能性があります。それほどまでに、ガジュマルの根に侵食されたタ・プロムの遺跡は有名になってしまいました。
 そのタ・プロムは、7世王が母の菩提を弔うために建造した仏教寺院です。境内は、東西が1000m。南北が600mの塀に囲まれています。以前は縦横に回廊がありましたが、今は壊れ去っています。
 ガジュマルの樹に侵食されたのは、13世紀後半にシャム軍に侵略を受け、また、内部分裂で、国が乱れたため、数百年に亘って熱帯雨林の中に放置されたためとされます。屋根や塀の上にガジュマルが育ったのは、小鳥の糞によって、ガジュマルの実が運ばれたためとされます。

<午後にもう一度、アンコールワット遺跡へ>
 アンコールワットの主要門が西側に作られていますから、午前中は逆光となります。見学する時間帯としては相応しくありません。それで、アンコールトム等を午前中に見学し、午後にもう一度アンコールワットを訪ねました。
 フリー百科事典の「ウィキペディア」を参照しながら、アンコールワットのあらましを説明しておきます。
 アンコールワットは、12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤ・ヴァルマン二世によって、ヒンドゥー教寺院として30年余の歳月を費やし建立されました。しかし、1431年頃には、アンコールワットが放棄されました。
 その後、プノンペンに王都が遷ると、一時は忘れ去られましが、再発見されました。アンチェン一世は1546年から1564年の間に未完成であった第1回廊北面とその付近に彫刻を施しました。孫のソター王は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を、四体の仏像に置き換えたとされます。
 アンコールは王都、ワットは寺院を意味します。大伽藍と美しい彫刻からクメール建築の傑作と称えられ、カンボジア国旗の中央にも象徴として描かれています。

<第1回廊、南面のレリーフ>
 南面西は「歴史回廊」と呼ばれています。行幸するスーリヤ・ヴァルマン二世と、それに従う王師、大臣、将軍、兵士などが彫られています。それに続く南面東は、「天国と地獄」と呼ばれています。上段に天国へ昇った人々、中段に閻魔大王らとその裁きを待つ人々、下段に地獄へ落ちた人々が彫られています。地獄では痛々しい刑が行われ、ライオンに食い付かれている人のレリーフもありました。また中段から下段への落とし穴も描かれていました。
 レリーフの保存状態は良く、修復の跡も見受けられませんでした。黒光りするレリーフは、見学者が手を触れたためとされます。このままでは磨耗してしまいますから、現在は木の柵が置かれて、直接手に触れることはできません。
 天井はフランスによって修復されていました。修復時点では、原形が残っていなかったそうですが、付近の文様を参考に花弁模様の天井が造られています。クメール・ルージュ支配時代に仏像の多くが首を斬られ、敷石にされたなど、多くの文化財の被害を受けました。この壁面のレリーフの被害が無かったことは、カンボジアだけで無く、世界の遺産としても幸いでした。

<アンコールワット遺跡、東面のレリーフ>
 東面南側には、乳海攪拌の様子が彫られています。神々と阿修羅等が大蛇ヴァースキを引き合ってマンダラ山を回し、海を混ぜている構図です。その伝説について説明します。少し長くなりますが、フリー百科事典の「ウィキペディア」を参照しました。
 「神々と阿修羅が、不老不死の妙薬アムリタを手に入れようと考えた。ヴィシュヌ神の化身である大亀クールマに大マンダラ山を乗せ、大蛇ヴァースキを絡ませて、神々とアスラがヴァースキを引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられた。海にすむ生物が細かく裁断されて、やがて乳の海になった。さらに1000年間攪拌がつづき、乳海から白い象アイラーヴァタや宝石、聖樹、天女ラムバー、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミらが次々と生まれた。最後にようやく天界の医神ダヌヴァンタリが妙薬アムリタの入った壺を持って現れた。しかしアムリタをめぐって神々と阿修羅が争いを続けることになった。
その結果、アムリタは神々のものとなったが、神々がアムリタを 飲むさいにラーフという阿修羅がこっそり口にした。それを太陽神スーリヤと月神チャンドラがヴィシュヌ神に伝えたので、ヴィシュヌは円盤でラーフの首を切断した。ラーフは首から上だけが不死となり、頭は告げ口したスーリヤとチャンドラを恨み、追いかけて食べようとする(日蝕・月蝕)。その体ケートゥとともに凶兆を告げる星となった」と、説明されています。
 日本神話はギリシャ神話に起源を持つとされる説や、中国や東南アジアの神話との共通性を持つことが指摘されています。
 例えば、イザナキ・イザナミが島々を生んだ後、神々を生み出していった、国産み(くにうみ)と神産み(かみうみ)の神話、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島になり、国を引いた綱が弓浜半島になったとする出雲に伝わる国引き(くにびき)の神話、太陽神であるアマテラスが隠れ、世界が真っ暗になってしまった天岩戸(あまのいわと)神話、8つの頭と8本の尾を持ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智)神話など、限が無いほどです。
 こんな日本神話との共通性や、カンボジア独特の表現を持つ神話を比べながらの見学も楽しいものです。建造物等も、夏至、春分、秋分等の天体活動を考慮した造りとなっているようです。

<アンコールワットの石段登り>
 第2回廊は、東西115m、南北100mあります。彫刻などは無く、何体かの仏像が祀られているだけの、飾りの少ない回廊となっています。この場所から第3回廊へは、幅が狭く、急な石段を登って入ります。両手両足を使わなければ登れません。
 最初は登るのを躊躇しましたが、東京からツアーに参加された方の5歳になるErkちゃんが、1人で登ってしまいましたので、私も登ってみることにしました。下りの方が大変でしたが、上からの眺望はそれを補うに十分でした。第2回廊の先に、熱帯雨林が広がっていました。
 アンコールワットのおさらいです。130年余り密林の中で眠り続けていたこの寺院は、ヒンドゥー教三大神のうちのヴィシュヌ神に捧げるために創建されました。以前に開催された「大アンコールワット展」の説明文から、アンコールワットの見所を要約しておきます。
 「その後、創健者スールヤ・ヴァルマン二世がヴィシュヌ神の生まれ変わりの神王と考えられていたため、王の死後は墳墓寺院となりました。中央の祠堂は、世界の中心山で神々が住む須弥山を象徴し、周囲の回廊は雄大なヒマラヤ連峰を、環濠は無限の大洋をあらわしています。
 アンコールワットは、まさに王権を神格化するためにクメール人独自の「宇宙観」を実現したものだと言えます」と、紹介されていました。

<プノンパケンの丘からの夕陽>
 プノンパケンの岡は夕陽見学の名所です。夕刻になりますと、続々と車が集まってきます。象に乗るとか、急坂を登るコースもありますが、緩やかな登山道を登るコースを選びました。
 大変なのは、日没後の下山です。大混雑しますから、現地ガイドさんが、日没前の集合時間を決めてくれました。観光客が乗り込み終わらないバスが、道を塞いだりしますと、すぐに大渋滞となります。
 乾季のこの時期、空が霞んでいますから、ゆっくりと熱帯樹林に沈んでいく夕陽を直視することが出来ます。岡の上は、ヤショ・ヴァルマン一世が9世紀末に創建した、ヒンドゥー教のピラミッド型遺跡があります。

<民族舞踊を見ながら夕食>
 カンボジアの舞踊には、王宮内で存続してきた王宮古典舞踊と、農民など庶民の間で受け継がれてきた庶民舞踊との二つの流れがあります。この夜、食事をしながら鑑賞したのは、王宮古典舞踊でした。
 王立プノンペン芸術大学の古典舞踊科を卒業され、今はカンボジア古典舞踊家として活躍されている山中さんのHPを引用しながら、カンボジアの古典舞踊について説明します。最初はその起源です。
 「カンボジア古典舞踊の歴史をたどると、インドのヒンズー教の影響を受けたクメール民族が、それを自分たち独自の文化として開花させ、9世紀から14世紀のアンコール王朝時代に、アンコールワット遺跡群で、神々と王に捧げるために儀式の中で踊っていた舞踊が始まり」と、紹介されています。次は、その後の盛衰です。
 「その後、アンコール王朝は衰退し、(中略)古典舞踊も廃れていきますが、19世紀フランスの植民地になり、民族の独立を確保したいクメール民族と自らの植民地を『東洋の神秘』としてヨーロッパで宣伝したいフランス側の意向が重なり、再興されました」と、盛衰が記されていました。次は、一番不幸だった時代のことです。
 「多くの国民、そして舞踊家や踊りの先生の9割が、このポル・ポト時代に殺されてしまいました」
 この記述は、ほかのHPにもありましたし、現地ガイドさんからもお聞きしました。僅かに生き残った舞踊家により、その踊りが復興されつつあります。次は、カンボジア舞踊の特徴です。
 「踊りそのものは、指先・足先をそらせること、ポーズや手の印の形、きらびやかな衣装、高い塔を持つ冠、ラーマヤナ物語を元にした話が多いことなど、タイやラオスの舞踊と大変似ています」と隣国との共通性についても触れられていました。更に、
 「今のカンボジア人にとって古典舞踊は、彼らの敬愛する王家に捧げるものであり、自分たちの民族のアイデンティティの証であり、アニミズムと祖先崇拝による彼らの宇宙観を伝えるもの」と締め括られていました。舞台袖で、熱心に踊りに見入る、欧米からの子供さんが居ました。


  アンコールワットの夜明け
 夜明け待つ泉はやがて薄明かり赤き睡蓮花開きたる

  アンコールトムで
 千年の時経て四面の菩薩像何を諭すかその目その口

 国創り神話の世界刻まれて阿修羅神々大蛇綱引く

  タ・プロムで
 SFの世界かガジュマル天を突き白き太き根塀を跨ぎぬ

  アンコールワットで
 石段を両手使いて頂きに果無く続く熱帯雨林

  プノンクロムの夕陽
 天空を渡り終えたる太陽は茜に染めて今沈み行く

【旅行時期】2007/01/28~2007/02/01
【エリア】シェムリアプ
【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
【投稿者】旅人のくまさん

いつか見た映画のような旅 ~モンドルキリの自然、古き伝統、時代の流れと共生する森人を訪ねる~(by クロマーさん)

チャム族
いつか見た映画のような旅
モンドルキリの自然、古き伝統、時代の流れと共生する森人を訪ねる

 モンドルキリ(山と出会うの意)。カンボジア東部に位置し、ベトナムと国境を有した広大な高原地帯である。ベトナム戦争時代には通称ホーチミンルートと呼ばれる軍事補給線があったことにより、米軍による度重なる爆撃が行われた。首都プノンペンからは10時間ほど、シェムリアップからだと12時間ほどで辿り着けるが、未だ赤土がむき出しとなっている幹線道路のため、雨季は陸の孤島となることも多い。州全体の人口はたったの4万人ほど。内80%がプノン族をはじめとした少数民族であるという。

第1日目 午前 メモット(コンポンチャム州)
チャム族が多く住むコンポンチャム(チャム人の港の意)。かつてメコン貿易の要所として活気のあった町であるが、日本支援により架けられたキズナ橋の誕生により、河を隔てた東西の貿易は激減した。どことなく寂れた感を持つ町を横目に橋を渡ると、竹製の大きな漁船が、茶色く濁った水に網をかまえている。雨季の増水により低地の田畑に流れ込んできた魚を狙っているのだろう。遠くから見るとたくさんのカマキリが獲物を狙ってカマをそろえているように見える。
 国道7号線を東へ、東へと進んでいくと、道路脇には大量の屑木が積み重ねられている。昨今までの不動産ブーム、建築ラッシュにより、地元のレンガ会社が焼レンガに使用する屑木を大量購入に来ていたそうだ。人々が浮かれていた土地バブルも終息に向かい、めっきり需要が減ってしまったようである。どこから運んでくるのだろう、ぼろぼろの原付バイクに載せられるだけ載せた丸太が、車幅いっぱいに横積みされて向かってくる。100kmほど離れた村から切り出して、町の木材問屋に運んでいるのだそうだ。
 
第1日目 午後 メモット(コンポンチャム州)
日本企業も進出してきているのだろう、日本語で書かれたゴム農園の看板を過ぎると、少し大きな町メモットへとたどり着いた。この町には小さな博物館があり、この地に紀元前一千年ほど前にあったという円形集落の調査記録が残されているのである。ずっと前から訪れてみたかったのであるが、不定期開館のため、いつもハズレを引いていたのだ。
到着した赤い館にはいつも通りしっかりとした錠が施されていた。ふと横を見ると電話番号が記載された小さな掛札がある。試しに掛けてみると3分とかからずバイクに乗って館長がやってきた。
館長と共に真っ暗な館内に入り込み、バタバタと窓とドアを開くと、さわやかな日差しとともに乾燥した風が流れ込む。
 小さな館内には円形集落の模型があり、当時の埋葬の様子、また近隣の村より発掘された陶器や、後の時代であるクメール王朝時の猪の彫像なども展示されていた。町の周辺には大小様々な30余りの円形集落があったようだ。
 一番近くのものは2km先だ。館長のその一言で、次の目的地は決まった。屋台で遅い昼食をとり、小さな畦道を走ると、陽気な女性達とすれ違った。山岳民族がよく使っている背負い篭を肩からさげ、頭には大きな篭を載せて荷物を運んでいる。スティアン族だと言う彼女達は、クメール族と較べると少しだけさっぱり顔だ。
 コーヒー豆を天日干ししているおじさんに声をかけ、円形集落のマウント部へと案内してもらう。とうの昔に集落として機能しなくなったこの地には、もはや人々は住んでおらず、オレンジやコーヒー豆の農園となっていた。

第2日目 午前 メモット(コンポンチャム州)~センモノロム(モンドルキリ州)
 朝早くから小さな食堂で朝食をとる。食堂に集まる人々の顔は、見慣れているクメール族とはどことなく違い、一重まぶたの者も多い。食堂内インテリアに目をやるとカンボジアとベトナムの食堂が融合した風に感じる。すぐそばではインテリアの一部のように、座っているお爺さんが、猫をなでている。
 モンドルキリの州都センモノロムまではここから2、3時間で到着する。もっとも乾期で道路状況がいい場合という条件付きではあるのだが。晴れとも曇りとも言い難い天候の中、スピードを加速させる。スヌオルという小さな町を越すと7号線から67号線へと切り替わり赤土の道路となる。森が切り拓かれ、造られた道路では中国から運ばれて来た大型重機が真っ赤な土を運び込み、ローラー車で整地している。目的地のセンモノロムまではもう少しだ。人気のない小さな村と森を抜けると透き通った空気が広がり、見渡しのいい高原へと辿り着いた。将来は高原リゾートとして立派な避暑地となることだろう。
 思ったより早く到着した町を、ぐるりと一周する。野牛の像が二頭、デンと佇んでいる。荷篭を背負った人々は森から採ってきた新鮮な果実や野菜を道端で売っている。密集という言葉からはほど遠い町だ。
 適当に見つけた宿に荷物を降ろし、市場前で客待ちするバイクタクシーに声をかける。英語は全く通じないので、クメール語での通訳兼案内を頼む。カンボジア北部ラタナキリのプノン族は、英語はもちろんクメール語ができない者が多かったからだ。
まずはプールン村へと向かう。前日に雨が降ったのだろうか、滑りやすい赤土の道路を低速で進むと、特徴のあるプノン族、通称森人と呼ばれる民族の家屋が見えてきた。のんべりと広い楕円型。外枠は竹で編みこまれ、かやぶき屋根で覆われている。時代の流れだろう、その脇にはカンボジアで一般的に普及している木製家屋が建っている。ふと見ると、のそのそと大きな象が歩いて来た。ちょうど森仕事から帰ってきたようで、大きな背中の上には葉煙草をくわえた象使いと大きな竹が載っていた。
一休みしている象使いに声をかける。プノン族ではあるが、クメール語も普通に話せるようだ。森の中に入ると小さな滝があると言うので、象に乗せてもらうことにした。外国人向けエレファントトレッキングが盛んなのだろう、家の中から乗客用座席を持ち出し、象の背中へとくくりつける。
森へと続く細道を進む。ドスン、ドスン、ドスン。一定のリズムを刻む足音が心地よい。小さな川を越し、アップダウンする山道をゆっくりと進む。違法伐採が行われているのだろう、山道には切り倒された大木があり、すぐそばには大型トラックと思しきタイヤ痕が残っていた。
竹林にさしかかると、沢音が聞こえ始めた。どうも目的地に到着したようだ。象使いは象を近くの木に寄せる。下り用梯子は準備されてなく大きな幹にしがみついてズリズリと滑り降りる。座席が取り外されると象と象使いの休憩時間だ。いつものことなのだろう、象はうれしそうに近くの竹林へと向かい、長い鼻を器用に使っておやつの竹を口へと運んでいく。しばらくおやつを楽しんだ後は入浴タイムだ。象使いを背に乗せ、沢の深みへと入っていく。象使いは持ってきた石鹸で自分を洗い、続いて象の体を泡立てている。目元まで浸かった象は、長い鼻から水を吹き出し、ブォホホーと気持ち良さそうに鳴いた。

第2日目 午後 センモノロム(モンドルキリ州)
 プールン村から北東に30kmほど向かうとブースラーの滝へと到着する。以前来た時と較べると道路状況は格段に良くなってはいたが、まだまだ大変な道路であることに変わりはない。
 やっと辿り着いた滝の入り口には森人達が屋台を開き、森で採れたばかりのバナナやアボカド、芋などを並べている。プノンペンから来たカンボジア人観光客が、こぞってそれらを買い求めている。旅先のご当地フルーツを、実家への土産として買って帰るのが、カンボジアの一種の文化であるためだ。
 雨期明けの二段滝は増水しており、迫力もぐっと増す。乾期であれば一段目と二段目の間のテラスを渡り、水浴びを楽しむ地元民も多いが、流れの強いこの時期はそうもいかず、思い思いのポーズで写真撮影を楽しんでいた。近くの岩場に腰をかけ、滝を望んでいると、森人がバナナを売りにきた。いらないというと、房から二本もぎ取り、僕の手に握らせ帰って行った。
 案内人に礼を告げ、荷物を預け置いた宿へと戻る。急いでシャワーを浴び、懐中電灯とカメラをバッグに詰めこみ、近くの商店で水とお菓子を大量に買い込む。突発的といった表現が正しいのだろう。ここに来る前に知り合った日本人がプノン族の伝統的家屋に泊まったという話を思い出したからだ。今まで一度も行ったこともないプータン村ではあるが、行けばどうにかなるだろう。もし断られたら、ただ戻ってくればいいだけなのだ。
ほとんど沈み落ちた太陽に心が焦りつつ、バイクを走らせる。途中、ライトに照らし出された伝統家屋に気付き、エンジンを停める。どうやらこの辺がプータン村のようだ。もう完全に日は落ちている。電気は通っておらず、光も音もない空間。見知らぬ人間に、吠えかける犬の声、時々発せられる牛の鳴き声がどこか遠くからきこえてくる。持ってきた懐中電灯を頼りに真っ暗な道路を歩いていると、近くに座っていた老婆の存在に気がついた。声をかけ、一夜の宿を頼んでみる。うん、うんと首を縦にふり、ついて来いという仕草をする。連れられて入った家屋の中は外から見た感じよりもずっと広く、人々は屋内の焚火で暖をとっている。家長であるお爺さんに挨拶すると、家族紹介が始まった。一棟に三世帯10名で同居しており、他に子豚二頭、犬二匹が一緒に住んでいるという。家族一同、突然の珍客に戸惑っている様子もなく、臆しもせずクメール語で話しかけてくる。さっき買ったばかりのお菓子をみんなに配る。あまり食べる機会もないのだろう、チョコレートが大人気のようで、みんなの顔がほころんでいる。
夕食時だったのか、まだ温かい白いご飯と、竹筒に入ったかぼちゃ料理が目の前に並べられた。ほんの少し辛いカボチャ料理を食べ終わる頃、大きな甕に入った酒がどこからともなく運び込まれた。宴の準備が完了したようだ。いつの間にか集まってきた、珍客目当ての見物人で家はいっぱいとなっていた。皆で酒をあおりながら、ある者は笛を吹き、ある者は歌っている。土佐の返杯のように、飲み干したグラスを次の者へと渡し渡し飲みつなぎ、夜は更けていった。

第3日目 午前 センモノロム(モンドルキリ州)
 焚かれていた薪も炭となりくすぶり始めている。標高700メートルを超す高原の朝は肌寒く、外が明るくなる前から森人達は行動を開始する。彼らより少しだけ朝寝坊をして、外に出ると、村にいるはずの象もすでに森仕事に向かったという。
 200メートルほどの小さな一本道に、ポツリポツリと伝統的家屋が並んでおり、それぞれの家屋からは、かやをすり抜けた煙が上がっている。近くの民家では餅つきの要領で山の米が精米されており、臼から飛び出たお米を狙って鶏が集まっている。
 近くを歩いている老夫婦が微笑みかけてきた。衣類こそ最近のものではあるが、男性の耳に開けられた大きな穴には木製ピアスが詰め込まれ、首元には色とりどりのビーズで作られた首飾りが纏われている。女性は葉煙草をくわえ、ときおり煙を吐き出している。昔から伝わる森人の文化・伝統は、新しいそれらと融合しつつ、次の世代へと継承されていくのだろう。
 家長に別れを告げ、センモノロムの町を見下ろせる丘へと向かう。到着した丘にはこの町を守っているネアックター(土地神)が祀られ、正面に広がる大地とそこに住む人々を見守っていた。

【旅行時期】2008/11/25~2008/11/27
【エリア】カンボジア
【テーマ】大自然・動物
【投稿者】クロマー

「メコンデルタ」ツァー 一泊二日の旅 ④(by しんちゃんさん)

チャム族
「メコンデルタ」ツァー 一泊二日の旅も最後になりました。ホテルに戻り昼食です。昼食は自前です。ここで、一泊二日と二泊三日組が別れます。一泊二日組はホーチミン(サイゴン)に帰路に着きます。二泊三日組はメコン川にてカンボジア国境近くで、水上住宅、チャム族の住む村、イスラム寺院の観光をするそうです。メコン川(後江)をフェリーで渡ります。渡ったあとはバスに揺られて、疲れが出たのか、ホーチミン(サイゴン)までは夢の中でした。目が覚めたら市内のオートバイの渦の中でした。

【旅行時期】2008/01/21~2008/01/31
【エリア】カントー
【テーマ】
【投稿者】しんちゃん

「ラオス南北?縦断」&そして ⑥ 『ワット・プー』(by カンゲンさん)

チャム族
ワット・プー遺跡は、世界遺産リストでは
『チャンパーサックの文化的景観にあるワット・プーと関連古代集落群』
(世界遺産:481 2001年)が正式な名称である。

チャンパーサック地方メコン川西岸の、古都チャンパーサックは、元々チャム族の国チャンパの領地であった。
5世紀にクメールの支配下に入り、クメール人の手で7世紀頃、聖なる山プー・カオの山麓に、ヒンドゥー教の寺院が建てられる。
クメール人は、この地からカンボジアに攻め入りアンコール文明を花開かせた。
13世紀、クメールが衰退に向かい、北のランサン王国の発展に伴いラオ族の移住者が増大し14世紀以降、ラオス人の先祖により仏像が安置されその後仏教寺院になった。

長い戦乱の影響もあり、遺跡の保存状態はすこぶる劣悪で、危機遺産に指定し、早急な修復が必要である。


【旅行時期】2007/04/19~2007/04/19
【エリア】チャムパーサック
【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
【投稿者】カンゲン

忘れ去られた歴史への旅 チャンパ王国の遺跡を訪ねて Ⅱ チャンパとは何か(by ハイペリオンさん)

チャム族
 2002年9月、僕は7回目のベトナム訪問に出た。今回の目的は、中南部の港町クイニョン近郊に点在する、チャンパ王国の遺跡を訪ねることだった。
 チャンパ王国とは、2世紀から17世紀にかけて、ベトナム中南部に興亡した海洋交易国家のことである。履修問題で揺れる高校の世界史の教科書には、アジア史の最後にほんの数行、ついでのように触れられている程度である。まるで、幕の内弁当の漬物のような扱いだ。しかし、この王国は、アジア史の中でも軽い扱いを受けるような存在ではないことは確かだ。
 チャンパ王国を作った民族はチャム族と言い、オーストロネシア系に属し、一般的なベトナム人とは全く異なった顔立ちをしている。サイゴンから約100キロ北上したところにあるファンティエット近郊には彼らの集落があるが、まるでアフリカ人と見紛うほど真っ黒で、頭にはターバンを巻いている。
 2世紀末、ベトナム中部に日南郡を置き、ここを支配した中国の漢は、その南にある国を林邑と呼んだ。これが7世紀の碑文で自らをチャンパと名乗った王国が、東アジア史に名を刻んだ最初の記録である。しかし、この王国の形態は我々がイメージしがちな中央集権的な王国とは若干異なっており、各地方の小王国の連合体であると考えられている。
 チャンパは海洋交易王国で、インドと中国を結ぶ交易ルートの中継地として栄えた。チャンパと同時期にインドネシアに興ったシュリーヴィジャヤもチャンパ同様、各港湾都市を統治していた小王国の連合体であると考えられている。

【旅行時期】2002/09/20~2002/10/05
【エリア】その他の都市
【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
【投稿者】ハイペリオン

ホテルサンルート福島

〒960-8043 福島県福島市中町2−6

ホテルサンルート福島
↑施設の外観


交通手段:JR東北新幹線福島駅東口出口→徒歩約7分またはタクシー約2分
値段:3150~11340円

ホテルサンルート福島


ホテルサンルート福島画像1 ホテルサンルート福島画像2 ホテルサンルート福島画像3

湯豆のやど本伝

〒379-1403 群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉1180

湯豆のやど本伝
↑施設の外観


交通手段:JR上越新幹線上毛高原駅〜タクシー(約20分)
値段:13650~23100円

湯豆のやど本伝


湯豆のやど本伝画像1 湯豆のやど本伝画像2 湯豆のやど本伝画像3

パルコール嬬恋リゾートホテル

〒377-1611 群馬県吾妻郡嬬恋村大字干俣バラギ高原

パルコール嬬恋リゾートホテル
↑施設の外観


交通手段:JR吾妻線万座・鹿沢口駅〜タクシー(約25分)
値段:10300~27400円

パルコール嬬恋リゾートホテル


パルコール嬬恋リゾートホテル画像1 パルコール嬬恋リゾートホテル画像2 パルコール嬬恋リゾートホテル画像3

栄屋ホテル

〒994-0024 山形県天童市鎌田2−3−16

栄屋ホテル
↑施設の外観


交通手段:JR奥羽本線天童駅東出口→徒歩約25分またはタクシー約5分
値段:10000~27300円

栄屋ホテル


栄屋ホテル画像1 栄屋ホテル画像2 栄屋ホテル画像3

ホテルニューわたや

〒766-0001 香川県仲多度郡琴平町796

ホテルニューわたや
↑施設の外観


交通手段:JR土讃線琴平駅→徒歩約10分またはタクシー約3分
値段:7900~21200円

ホテルニューわたや


ホテルニューわたや画像1 ホテルニューわたや画像2 ホテルニューわたや画像3

平泉ホテル武蔵坊

〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢15

平泉ホテル武蔵坊
↑施設の外観


交通手段:JR東北本線平泉駅正面出口→徒歩約13分またはタクシー約3分
値段:9100~23800円

平泉ホテル武蔵坊


平泉ホテル武蔵坊画像1 平泉ホテル武蔵坊画像2 平泉ホテル武蔵坊画像3

村松旅館

〒377-0102 群馬県渋川市伊香保町伊香保69

村松旅館
↑施設の外観


交通手段:JR上越線渋川駅→バス伊香保温泉行き約30分伊香保温泉下車→徒歩約5分
値段:8400~20500円

村松旅館


村松旅館画像1 村松旅館画像2 村松旅館画像3

鹿児島東急イン

〒890-0053 鹿児島県鹿児島市中央町5−1

鹿児島東急イン
↑施設の外観


交通手段:JR九州新幹線鹿児島中央駅桜島側出口→徒歩約7分
値段:6300~16275円

鹿児島東急イン


鹿児島東急イン画像1 鹿児島東急イン画像2 鹿児島東急イン画像3

熱川第一ホテル

〒413-0302 静岡県賀茂郡東伊豆町奈良本1267−2

熱川第一ホテル
↑施設の外観


交通手段:JR東海道線踊り子号伊豆熱川駅→徒歩約15分またはタクシー約3分
値段:8400~25200円

熱川第一ホテル


熱川第一ホテル画像1 熱川第一ホテル画像2 熱川第一ホテル画像3

ホテルアルファ館

〒892-0841 鹿児島県鹿児島市照国町17−11

ホテルアルファ館
↑施設の外観


交通手段:JR鹿児島本線鹿児島中央駅東口出口→市電鹿児島中央駅前電停駅から天文館・鹿児島駅行き約8分天文館電停駅下車→徒歩約10分
値段:4935~5880円

ホテルアルファ館


ホテルアルファ館画像1 ホテルアルファ館画像2 ホテルアルファ館画像3